Harvest Hurts
作、編曲家/ギタリスト : 津田 治彦のblog
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HAL

Author:HAL
所謂伝説のプログレバンド「新月」のギタリスト
ここ20年以上は通称「HAL」、同名異匠は多いけど老舗のほうかな
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ローリング・ストーンズのこと
そろそろ歳も食ってきたので他人様の批評めいたこともしていいかなと思う今日このごろ。
自分の音楽人生で体験してきた事柄に関しては、まあ対外的にはハイライトと言えるこのバンドとの邂逅のことは記録しておきたい。
個人の内面としては、この言ってみれば事件は産業としての音楽にひとつの見切りを付けることにもなったわけだけれどね。
「聖なる牛」を大事にするとか殺すとかいう表現が英語にあるけれど、ローリングストーンズは私にとってちょっとした「聖なる牛」だったわけだ。

多分、音楽的に早熟だった私はと言ってもこの世界には天才が数多くいるので程度問題だが、リスナーとしては5才くらいのときには既にベートーベンの田園を第三楽章くらいまで主メロディーが追えたり、ヤマハの音楽教室のオルガン課題があまりにつまらないのでボイコットしたりしていた。
今ではイルミナティー企業と理解している三菱系にいた親の影響で、家には古今東西の文学全集やらクラシックの名盤シリーズが溢れていた。
そんなこんなで暮らしていると、10才のときにいきなり「音階」というものが体系として頭のなかを占領したのを覚えている。
これはやけにきっちりとした数学的な構造で、自分が口ずさんできたメロディーに座標を与える「便利」なものだった。

この頃は東京オリンピック(64年)やらビートルズが来日するわ(66年)で、日本中はなにかバラ色の未来に向かって熱に浮かされているような空気がたしかにあった。
重厚な前世期末文化に馴染んだ子供には、一方で真空管ラジオから流れる810KhzのFEN(米軍極東ラジオ)から流れてくるポップソングはカラフルなオモチャ箱のように思えた。
また、まだロックという言葉も一般的ではなくて、この手の「ポップス」趣味を満足できるテレビ番組は、大橋巨泉が司会(今で言うVJか)の「ビートポップス」か「モンキーズ」しか無かった。
このビートポップスで見たアニマルズとローリングストーンズに私は衝撃を受けたものだった。
なんせ、古き良き規範のクラシック音楽の規範からことごとく逸脱していたからね。
まずは、格好があまりに「汚い」、で、チューニングは狂っているので「音階」から外れている、、
この手の逸脱は今では個性とかいう言葉と混同されて消費されてしまうものだけれど、当時は逆毛立つような破壊力があったように思う。
とうとうこういうものが大好きな自分を発見してしまい、以来ストーンズは私の「聖なる牛」となったのであった。
対するビートルズというものは、あまりにキチンとしたものに見えて自分には「牛」になってもらう条件を満たさなかったものだ。

時はいきなり跳躍して1994年のどこかで、ある女性の音楽プロデューサーから電話があった。
当時私は小規模ながら会社組織でやはりプロデュースの仕事もやっていながら、録音の技術方面にも明るいほうだったのが理由のようだった。
この女性プロデューサーはもう故人となってしまったが、後で知ったことによると、なんと自分のやっていたバンド「新月」のベース奏者の彼女だったことがあるらしい。
不思議な縁というものはあるもので、好き嫌いは別にして人の集まりというものはどこかこの世でないところで時間を超えて繋がっているようにも思える瞬間でもあった。
話は戻り、電話の用件は、「こんどローリングストーンズのドーム公演のシューティングを仕切ることになったんだけど、国営放送で放送もするしサントラも作るから、録音の統括をやってくれ」というものだった。
もう既に話が決まっているかのような言い方はこの人の常で、実際に仕事になるのは3割程度という統計に基づいて私は「わかりました」とだけ返したのだった。
このとき私は、江ノ島の防波堤で釣りをしていたので、季節は秋頃だったように思う。珍しく、沖合いにはイルカの群れが魚群を追っていたのを覚えている。

その後、しばらくして「打ち合わせ」があるからと言われ、出掛けていったのは青山にあった今はもう無いトライクルレコードというテイチク傘下の会社のオフィスだった。
この場所は、またしてもと言おうか今でも「新月」の音源を出版しているマーキーの事務所になっているのは偶然なのか。
しかし、なんでEMIが誇るストーンズの収録の打ち合わせが系統の異なる会社で行われるのかは謎だったが、この女性プロデューザーのアメリカ人脈とNHK内部に巣食うある
特殊な人脈のせいであろうという推測ができる顔ぶれではあった。
これはなんとか杞憂で終わることにはなるが、危ない橋になるんじゃないかという危惧を持つには充分な状況ではあった。
この危惧の一因には、NHK側の人脈の関係者が以前に私の妹にストーカー紛いのことをしでかしていたというのもあったりしたが、ストーンズの現場に立ち会うという魅力には勝てず、先へ進むことにした。
自分にとってもこのバンドは「聖なる牛」でありつつも邪悪の影が付きまとうというのは、なにか当たり前のようにも感じたものだった。

打ち合わせは意外にも順調に進み、ツアーの名称が"Voodoo Rounge Tour"であることが明らかにされ、私は1995年の3月8日と12日の東京ドーム公演の日本側収録チームの録音ディレクターとして仕事をすることになったのだった。
3月8日のほうはNHKの放送用で、12日のほうはビデオとレーザーディスクの製品用原盤として収録することになったわけだ。
また、東京ドーム公演は3月6日から始まり17日まで7回ほど行われたが、たしか6日や9日の公演も素材として収録したように記憶している。

結果的には放送はこんな感じになり、



製品版はこんな感じになった。



とりあえず、日本側部隊の要望はハイクオリティな完全収録だったので、当時最高性能のモービルスタジオを持っていたタムコで96チャンネルの録音が可能な車をリザーブした。
これは当時の最高で48チャンネルの録音ができるソニーの通称「3348」を2台シンクロしてモニターができる、今から見れば化け物のような車であった。
私はと言えば、これ以前に少しシンガポールで仕事をしたくらいの英語力だったのであまりしゃべるほうには自信もなく、当時スタンダードだったSSLのミックスコンソールの全てを知っていたわけでもなかったので、エンジニアのF氏とバイリンガルのミュージシャンの友人K氏の3人のチームを作って仕事に臨むことにした。
まあ、今思えばそうでもないけれど、当時としてはかなりの弱小チームの感は否めず、我々は来日したストーンズチームのミーティングに出掛けることになった。
時期は公演初日の一週間くらい前だったと記憶している。場所はあちらのチームが投宿している山王のほうにあった由緒正しきかつ、また歴史の影を落とすヒルトンだった。

出掛けてみると、これまた私でも顔を知っているいろいろな意味での極道の方々が闊歩するロビーを抜け、設定されたミーティングルームには歴戦のストーンズファミリーというわけだ。
ミーティングが始まると、場は一変して異様にビジネスライクというか、必要事項の確認と伝達のみで非常に進行が早い。
どのセクションの誰が責任者で誰が情報の統括者で、情報の回し方を徹底するのみという感じで、実際の現場はもう細かいことを確認する必要もないのだろう。
これは非常の統制の取れた移動サーカス会社であって、スタッフは歴戦のプロばかりという印象であった。
スタッフと言っても見慣れたローディーや楽器のテクニシャンといった音楽関係はむしろ数が少なくて、大工や料理人やケータリング関係、果ては精神科医までが一体となって世界を回っているということもわかった。
また、こういったスタッフを統括しているのはパブリシティと渉外の担当者でミーティングの進行も行うのが常のようだった。

まあ、とにかくこれだけのアーティストと職人を揃えてかつ統制の取れたチームというのは未だかつて見たことがない。
ステージセットはピンク・フロイドの"The Wall"をやっていたマーク・フィッシャーが絡んでいるし、サポートミュージシャンもピアノがオールマン・ブラザースでやっていた
チャック・リーベル、ベースがウェザーリポートやスティングバンドで弾いたダリル・ジョーンズ、サックスもジョー・コッカーバンドだったボビー・キーズ、、
私が中学から高校にかけてビニール盤のレコードをすり減らしていた人たちが生身で目の前にいるというのは感慨無量という他はなかった。
http://en.wikipedia.org/wiki/Voodoo_Lounge_Tour

しかしスタッフはたいした職人ばかりのようなので、我々も感慨にむせぶようなそぶりも見せずに対応したりなぞして、けっこう見栄っ張りだったのだろうか。
我々に対応するストーンズ側の職人は、ベンジー・ルフェーブルという人であった。
この人の自己紹介では、レッド・ツェッペリン初期から9年間に亘ってエンジニアを務めたということであったが、それって私が中学生のときに聴き倒していたあれやこれやのアルバムを全てこの人がミックスしたということなのか。
さすがにこのときだけは感慨無量モードを止めることができなかった。
物腰はやはりおだやかな紳士風のこの人があのツェッペリンの熱の中にいたのかと思うと不思議な感じも受けつつ、今になって少しネットを探ると、ルフェーブル氏はハットフィールドアンドノースのギタリストだったフィル・ミラーのアルバムのプロデューサーもやっていたりして驚いたりする。
そして、当時はそんな話題は交わさなかったけれど、ジョン・ボーナムが亡くなったときの第一発見者でもあったようだ。
http://home.att.net/~chuckayoub/john_bonham_biography.htm

ルフェーブル氏は、「暇な時は田舎をボロいBMWでドライブするのが好きなのさ」といった感じの人なのだが仕事になるとやはり只者ではなく、この94、5年の時点で既に世界中で収集したライブ会場の音響特性をラップトップに納めており、大会場の音響遅延の修正には光ケーブルのデジタル転送システムで対応していた。
その後、無事に共同でサウンドトラックを収録し、ストーンズの福岡公演を終えてからルフェーブル氏はツアー本体と別れて東京に戻り、我々とミックスダウンの作業に入った。
このときに、氏は我々から見たら奇妙なミックス具合に仕上げていた。
なにか、ミック・ジャガーとキース・リチャーズ、チャーリー・ワッツの3人の音だけがメインで聞こえて、他のメンバーはロンウッドがそこそこでサポートメンバーの音の特にベースのダリル・ジョーンズの音が小さいのだ。
これは音楽的におかしいんじゃないのと聞くと、「いや~、こういう風にしないとオンエアーも製品も許可しないという契約条項があるんだよねえ」と言うのであった。
これには、さすがにショービジネスと無理やり納得するしかなかったのであった。

ちょうどこの作業を行っている日は、スケジュールも押していたので徹夜で作業をやっていたわけだが、なにやらスタジオのロビーが妙な雰囲気になっていた。
朦朧とした頭でロビーに出て行くとテレビに映っていたのは騒然とした神谷町付近の映像で、スタジオは湾岸道路沿いの汐留近辺にあったのでかなりの至近距離であった。
日付は3月20日になっていて、これは所謂地下鉄サリン事件の実況映像だったわけだけれど、いつのまにかルフェーブル氏もテレビの前に来て食い入るように画面を見つめて動かなかった。
その後、いつ作業を再開してどうやって完成させたかはあまり記憶がない。

この年は1995年であり1月17日に阪神大震災があり、この年以前と以降では時間の流れは変わってしまった感がある。
また私の中でなんらかの聖なる牛が死に、何年か後になってこんな翻訳文をネット上に残すことになった。

▼英国寡頭勢力の手先ローリング・ストーンズ来日記念【ロックの悪魔的ルーツ】全文訳part1
http://www.asyura.com/2003/dispute8/msg/848.html

▼英国寡頭勢力の手先ローリング・ストーンズ来日記念【ロックの悪魔的ルーツ】全文訳part2
http://www.asyura.com/2003/dispute8/msg/849.html

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[2011/12/09 02:05] | # [ 編集 ]

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[2012/11/21 14:04] | # [ 編集 ]

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[2013/02/05 04:26] | # [ 編集 ]

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